因果応報ついて
私の能力と仏教の教えとの間にはなんら因果関係がないことを最初に述べておきます。要するに、宗教活動として治療を実施しているのではないのです。しかし、私のところに訪れる方々を観察し、病気の事柄や様々発生する事柄の内容を判断すると、仏教の教えや神事に述べられている事柄を無視きないのです。よって、因果応報や輪廻転生もまた無視できないことと判断せざるおう得ないことになるのです。
ところで、私の実施している治療方法の効果は、確かに信じがたいほどの効果がある。しかし、残念ながら現在のところ、因果応報によって生じた病気や現象などを改善させたり、軽減することができるとは自信をもって言えない状況である。しかしながら今後、でき得るだけの修行をして、皆様の期待に応えていきたいと考えております。チャクラの覚醒及びクンダリニーの上昇体験をしたとは言え、残念ながら因果応報による現象に対しては限界があるようです。この事柄から判断すると、因果応報とは大変重要であり、避けては通れないのかも知れない。
仏教の大切な教えの一つに縁起(因果応報と言う言葉)があります。すべての事象は、空間的な依存関係や時間的な因果関係で成り立っているということですが、それは私達がすべての人たちに支えられ、蟻1匹落ち葉1枚のおかげで生きているということ、またすべての事象が原因となって次の事象(結果)を生んでゆくという帰結の法則なのです。それはまた、良い原因でも悪い原因でも自分が考え行動した結果は必ず自分に表れてくるという、因果応報の法則でもあります。この因果応報の場合を考えてみれば、自分自身には全く関係がないと言うわけにもいかないのです。勿論、私であっても例外とは言えないのです。
「自分で撒いた種は、自分で刈り取らねばならない。」というキリストの言葉と同じです。自らの欲望によって人に与えた苦しみは、いつか必ず自分の苦しみとなって還ってきます。原因と結果が時間を置いてしまうことと、苦しみを与えた相手と苦しみを受ける相手が異なっていることから、私達にはこの法則が見えにくいのです。勿論善因善果で良いことをした結果も必ずいつか報われることになります。人の運不運は過去に為した原因の結果だったのです。
現在の世の中であったとしても、太古の昔から因果応報と述べられている事柄は脈々と現存しているのです。ですから、貴方がこれまでに行ってきた行為が正しいものであった場合には、判断する事柄はこれからも正しいことになるのです。またその反対のこと、つまり、これまでに行ってきた行為が正しくない場合は、正しい判断ではなく誤った判断をすることになるのです。要するに、貴方の心の中がどうであるかが問題なのです。
縁ある方々もまた因果応報を排除しては、絶対に考えられない事柄であることを自覚するべきです。つまり、私の行う治療方法を選択するか、他の方の治療方法を選択するのもまた、因果応報に由来するものなのです。更には、改善しやすい方か、しにくい方かもまた因果応報に由来するのです。どのような理屈を付けても、この因果応報と言う言葉をないがしろにすることは決してできないのです。「病気の種類は勿論のこと、改善することが可能かも決まってくる」としか言いようがないのです。ですから私は常々「愛が最も大事である」と何度も述べているのです。要するに、責任逃れや裏切り行為は、絶対に慎むべきなのです。
考え方によっては、好んで病気になろうとしたり、不孝になろうとしたりすることはないはずなのです。しかし現実はどうであろうか、好むと好まざると関係なく、病気になったり不幸な事柄が発生するのです。ところでその病気になった状況や病気の状態、様々な不自然な状況で発生する不孝な事柄を心を静め冷静になり、よくよく考えと、納得することばかりが発生していることが理解できるのです。
輪廻転生について
輪廻思想は、仏教以前からあった考え方ですが、それは仏教の背景にあって、仏教倫理の根幹を成しています。輪廻思想では、人は仏(完成した人間)になるまで生死を繰り返し、自らの不完全性を正す目的で何度も何度もこの世に生まれ変る、とされています。そして因果応報や依存の帰結は、宿業(カルマ)や人の縁として次の人生に繰り越されます。幸いにも近年、退行催眠や臨死体験、前世記憶などの研究によって、科学的な態度でこれらを理解することができるようになりました。
それによると、人は自ら為した過ちを正すため、それに適した境遇を選んで、納得して生まれてくるということです。ですから、どのような境遇にあってもそれによる苦難には前向きに立ち向かい、それを解決してゆく態度が人生に求められます。苦難の原因を解決することによってのみ、人生の成果が得られるのです。 |